勉強をやめた
私は比較的勉強が好きだ。
受験生時代も勉強につぎ込んだし(大学ではさっぱりだったけど)、社会人になっても英語やその他の資格試験にも取り組んだ。
休日に机に向かうのはもちろん楽しくはなかったけど、
何よりも、勉強していると「安心」するのだ。
スキルアップのために休日も自己研磨に励むというのは、何と自尊心を満たしてくれるのだろう。
皆が遊んでいるときに、私は陰ながらに勉強に勤しみ、資格試験を受け、いつか来るかもしれない昇進や転職に向けて準備しているのだ。
あー私ってすごい。
勉強する=前に進んでいる気がする。
そう思っていたのだ。
今年に入って、また私はとある資格試験に向けて勉強を始めた。
国家試験であり、なかなかの難易度のものだ。
平日2時間、休日3~4時間は勉強していたと思う。
が、この勉強をやめることにした。
やっぱり難易度が高いし、勉強が嫌になったのももちろんある。
ただ単に、難しくて諦めました。というだけの話だ。
しかし、それだけではない。
資格や勉強じゃなくて、一番大切なのは「実践」だと改めて思ったからだ。
人気ブロガーちきりんさんの、「マーケット感覚を身につけよう」と読んで、
机に向かっていては、このマーケット感覚を養えない!と気づいた。
大切なのは、外に出て市場を肌で感じ、自分で考えることだ、そう痛感した。
勉強ばかりしていては、準備で終わってしまい、いつまで経っても本番を迎えられない。
自己陶酔して前進している気分でいたことが恥ずかしかった。
知識が欲しければその分野の本でも読めば良いし。
ただ、資格の素晴らしいところは、その分野を体系的に学べることだ。
今までの蓄積ももちろん役立っているし、学んで良かったと思えることばかりだ。
準備はもう整った。
そろそろ本番を迎えたい。
友達
私は昔から友達が少ない。
小学生の頃から集団行動は苦手だったし、
女子グループで固まるのも苦痛だった。
けど、疎外感を感じたくなくて、クラスで目立ちそうなグループに頑張ってしがみついていた、典型的な女子児童だったと思う。
この傾向は高校2年生の頃、ガラッと変わることになる。
私は私立大学の付属高校に通っていて、生徒の8割程が附属大学に進学する学校だった。
大学受験をしなくて済むからその高校を選んだのに、結局私は他大学を目指すことになった。
もちろん附属の大学より上のランクを目指すので、高校の授業より予備校の授業が大切だった。
高校の先生方も、「合格すれば、他大学からの推薦枠が増えるから」と、最低限の出席日数で通学することを提案してくれた。
そこから私は何より受験勉強を優先することにした。
そうすると、クラスメイトからは、「なぜか外部受受験を志す、学校にあまり来ない人」として見られることになる。
何なら体育の授業だけ出て帰ったりしていたので、相当不思議がられた。
結果、高校生活で友達は一人しかできなかった。
正確にはたった一人としか交流しなかったわけではなく、何となく5~6人と一緒に過ごしてはいたが、気兼ねなく話せる友達はその一人だった。
思春期の高校生にとって、友達が極端に少ないことはさぞかし寂しかっただろうと思われていたかもしれないが、
そんな寂しさは微塵も感じたことはなかった。
なぜなら、「合格したい!」という、「やりたいこと」が明確だったからだ。
私にはやりたいこと、やるべきことが他のクラスメイトより強く明確だったので、それ以外の学校生活はもはやどうでも良かったのだろう。
同じ志を持った人がいれば友達になったか?と考えても、「なったかもしれないけど、友達に割く時間はその頃無かった」という結論に至る。
やりたいことに100%時間をかけていたから。
そう思うと、この時間はかなり有意義であり、贅沢な時間だったともいえるかもしれない。
そして高校を卒業して10年以上経った今、同じ状況を味わってる。
学生時代から少なかった友達だが、社会人になってからもその傾向は相変わらずだ。
まぁ、大人になって友達が急増する人もいないだろうから、皆そんなもんだろう。
(「知り合い」が増える人はたくさんいるかもしれない)
そんな数少ない友達の中に、会うとあまり心地よくない気分になる人がいた。
考え方が全然違うし、なぜかいつも求めていないアドバイスをくれるので、話していると何とも言えない気分になるのだ。
もし数年前なら、何となくやり過ごしながら会い続けていたかもしれない。
二人きりではなくて、もう一人の友達を三人で会うことがほとんどだし、「三人グループから突然抜ける」というのは、やはり気が引ける。
が、私はもうその友達とは会わないことに決めた。
堂々とグループを抜けようと思う。
なぜなら、人生の時間は有限で、無駄足踏んでいる場合ではないと気付いたからだ。
そんなの当たり前だと思うだろうか?
その当たり前に気付けず、あまり楽しいとは言えない時間を私は長いこと過ごしていた。
同じような人も多いのではないだろうか。
高校生の頃に経験した、「やりたいこと」に時間を注げることの充実感は何事にも代えがたい。
大人になった今、残りの後半人生はそんな時間にしたいのだ。
だから、気持ちの良い関係しか築きたくない。
そう決めたら、楽になった。
そして、「やりたいこと」をより実感できたことに、私は満足している。
だから、罪悪感も感じない。
もしかしたら相手を不愉快にするかもしれないけど、私は自分の人生をもっともっと楽しいものにしたいのだ。
もちろん、面と向かって「もうあなたとは会わない!」なんて言わないし、その辺はうまいことやりたいけど。
インプットが足りない
文章力を上げるためにこのブログを書いている。
社会人になると、なかなか1000文字以上の文書を書く機会なんて無い。
仕事の資料はともかく、自分の意見を1000文字って結構長いと思う。
私が中学生の頃はネット黎明期で、自分のホームページを作るのが流行っていた。
作るというか、テンプレートがあってそこに入力するだけでホームページらしきものが完成するサービスだ。
BBSやキリ番等、懐かしすぎて泣けてくる。。。
私はそのホームページ作成が好きで、そこで日記を公開していた。
その頃はまだブログという言葉は無かったし、何も考えずに好きなことを綴っていた。
まだ中学生だったしね。
読んでくれた友達からは、「面白い!」「文才あるね!」なんてお世辞を言われては、私って文章書くの上手いんだ!と本気で思っていた。
それから大人になって、自分の考えや気持ちを綴ることは無くなった。
最近はインスタやツイッターの短文が主流だとも思う。
仕事の資料を作るときなんかに、あー文章力落ちたな。とすごく感じる。
資料なので簡潔で分かりやすければ良いんだけど、
何かこう、「読ませる文章」を書きたいと思った。
そして、書くことで自分の考えをまとめたり、吐き出したりしたいと思った。
そしてぼちぼちココで文章を書いていて、
「圧倒的にインプットが足りない」と痛感した。
「知識」という意味ではない。
もっと様々な優れた情報に触れてインプットが増えれば、もっと様々な角度から物事を考察出来るのに、私にはまだまだそれが足りない。
日頃からもっと思考を巡らせていないと駄目だなぁ。
自分の中に無いものは出てこないから。
それが分かっただけ、マシか。
ノンアルコールにはまった
最近ずっとノンアルコールビールを飲んでいる。
私は自他共に認めるお酒好きで、ほぼ毎日晩酌をしていた。
一日酎ハイやハイボール350mlを1本~2本くらい。
休肝日をつくろう!と思っても、昨日飲まなかったから今日野もう→2日間飲まなかったから多めに飲んじゃおう→結局毎日飲む
このループから中々抜け出せなかった。
そもそも酒量を減らそうと思った理由は、当然健康問題だ。
酒量が増えてくると眠りが浅くなって目ざめが悪いし、
飲むとたまに背中が痛くなったりしてきたのだ。多分、すい臓?
そこで手を出したのが、ノンアルコールビール。
ノンアルって、ドライバー用でしょ?と思っていたし、そもそも酔わないなら飲む意味ないじゃんとも思っていた。
ノンアルならジュースで良いじゃん!と。
ただ、ジュースや炭酸水では「飲んだ感」が私には全くないのだ。
初めてノンアルコールビールを飲んだ時、「飲んだ感」に感動した。
当然酔わない。酔わないけど、「飲んだ感」=「満足感」がすごいのだ。
幸いなことに、私はもともとビール党ではないのでビールの違いが分からない。
何なら発泡酒とビールの違いもよく分からない。
だからノンアルコールでも舌を騙せるのだろう。
普段はハイボールかワインが好きだ。
そして最近ではノンアルコールのハイボールまで出ている。
これは!と思って試してみたけど、やっぱりビールの方が完成度が高い気がする。
普通のビールの良いところと私の場合
1、美味しい→バカ舌の私にはノンアルでも問題なし
2、寝酒になる→でも眠りは浅くなる
3、酔って気持ちよくなれる→これは確かに。ノンアルでは無理。
ノンアルコールビールの良いところ
1、内臓に負担が少ない
2、眠りの質に影響しない
3、酔わないけど満足感がある
これを考えると、「酔える」っていうのは私の中で重要ではないらしい。
じゃあ何のためにお酒を飲むのか?と言われると・・・習慣かな。癖になってしまっているだけなのかも。
更にノンアルコールビールであれば、休日のお昼に飲んでも酔って眠くならないし、午後からの活動にも影響しない。
これが思わぬ良かった点だった。
私は大体休日の午前中に近所のカフェに行き、一旦帰宅してランチを食べ、午後からまた出かけたりする。
ランチに飲みたい!と思っても、午後の予定があるのでそれが出来なかった。
ノンアルコールであれば、昼間からシュワシュワ出来て、午後から勉強したり本を読んだりも出来る。
つまり生産的な一日に出来るのだ。
ここまで書いて、そしたらそもそもお酒を飲まなければいーじゃん。と思ってきた。笑
でも私は別に禁酒したいわけではないのだ。
休日前の夜には普通のアルコールを飲みたいし、たまの飲み会だって喜々として参加する。
安くて、ジュースにはない満足感を味わえるノンアルコールビールは使える!という話だ。
お酒好きの友人達にこの話をすると、全く理解してもらえない。
「そんなの真の酒好きじゃない!」と紛糾されるが、
そもそもお酒好きなんて誇れたことではないのでそれで全然構わない。笑
因みにノンアルコールビールは禁酒したい人には向かないらしい。
本気で禁酒したいなら、お酒「のようなもの」を断ち切る必要があるんだとか。
結局アルコールの楽しさを想起するもんね。
これからもノンアル生活、楽しみます。
■
ヤフーでこんな記事を読んだ。
性的マイノリティの記事だ。
金八先生で話題になった「性同一性障害」という言葉で私は初めてこういった苦悩を抱えている人がいるのだと知った。
それからテレビでいわゆるオネェ系タレントがブームになったり、最近ではLGBTという言葉もとても身近になったと感じる。
アロマンティク/アセクシャルという言葉はこの記事で初めて知ったが、それ以外にも色々と類型があるらしい。
もちろん一つのカテゴリーにぴったり当てはまらない人もいれば、年齢によって変化する人もいるだろう。
この複雑なカテゴリーを見て、ベジタリアンの種類分けを思い出した。
日本エシカルヴィーガン協会によれば、ベジタリアンといっても広義から狭義、部分的なものまで10種類に分かれるらしい。
卵は食べるオボ・ベジタリアン、乳製品は食べるラクト・ベジタリアン、完全菜食主義のヴィーガン、といった具合に。
しかし、性的マイノリティはベジタリアンと違って、自分の意思でなるものではない。
まして目には見えない心の問題で、容易にカテゴライズできるものではなく、その型がたくさんあって当然だと思う。
ヤフーニュースの記事に対するコメント欄には、
「そこまで細分化する必要があるのか」
「何のマイノリティだって、好きに生きれば良い」
という声が見られた。
これはマイノリティ側ではなく、間違いなくマジョリティ側の人の意見だ。
私は性的にはマジョリティで、マイノリティであることで苦悩を抱えている人の気持ちは分かるはずがない。なので以下は全て想像になる。
一つにマイノリティといっても、たくさんの形があるだろう。
自分は人と違うことに気付き、思春期は特に悩むこともあったはずだ。
しかし時代は進み、インターネットのお陰で世界は小さくなり、どうやら自分と同じような人が他にもいるらしいと気付く。
それだけで理解者を得たり、悩みが消えるわけではないけど、
カテゴライズされることで安心する面もあるのではないか。
体調が悪くて病院に行って、医者に「何の病気かは分からないけど、たまにあることなので多分心配ないですよ!」と言われたら私は余計不安になると思う。
それなら、「ちょっと厄介な〇〇っていう病気なんだけど、上手く付き合っていきましょう」と言われた方が前向きな気持ちになる気がする。
(性的マイノリティが病気だという意味ではない)
「名前が付くと安心する」→「自分だけじゃなかったんだと思える」ということだろうか。
性的に限らず、すべてのマイノリティが悩むことなく自由に生きられれば良いと願う。
人はどこかしら必ずマイノリティな部分があるはずだから。
価値観
2020年がこんなことになるなんて、誰が想像しただろうか。
私はライトな占い好きで有名な占い師さんのサイトもよく読むけど、
予言した人は多分いなかった。
また私は無宗教だけど(実は浄土真宗らしい。親族の葬儀で家族全員初めて知った。)神信深いという典型的な日本人で、今年は本厄だからきちんと厄払いにも行ったのに、この有様だ。
私だけじゃない、日本中が一億総厄年だ。いや、世界中が大厄だ。
因みに私は前厄の厄払いもちゃんと行ったし、来年の後厄だって行くつもり。
きっと日本、いや世界中のたくさんの人がこのコロナ禍で自分と向き合う時間が何倍にも増え、己を振り返り、価値観の再確認していると思う。
このブログを備忘録として、私が再確認した自分の価値観を記しておきたい。
私みたいにこれを機にブログを立ち上げた人も多いだろうなぁ。。。
価値観1.ステイホーム最高。一人時間が楽しすぎる。
私は小売業界で働いていて、店舗勤務のため4月~5月いっぱい休業を余儀なくされた。
その間、国の要請に従順に従って大人しくステイホームに徹してた。
その時の一日のスケジュール↓
9時 起床
~10時 朝食
~13時 家事、オンライン英会話レッスン、ネットサーフィン
~14時 お昼ご飯
~16時 週に1,2回はスーパーで買い物
行かない日はネットサーフィン
~19時 夕方のニュースを見る
~20時 夜ご飯
~23時 ネットサーフィン、就寝の準備
23時 就寝
最高かな?
家族友人同僚とラインしたり、たまにはオンライン飲み会なんてのもしたけど、
ほぼこのスケジュールで過ごしていた。
本当は資格試験の勉強をするべきだったんだけど、時間があるときって逆にやる気にならないんですよねぇ・・・
自粛明けに同僚や友人に会ったときに、
「やっと外に出られた!人と喋れる!一人はストレスが溜まる!」
という人が案外多くて、私は心底驚いた。マジで驚愕した。
私、一人でいる時間楽しすぎたんだけど・・・
ストレスフリーすぎ健康的すぎだったんだけど・・・
薄々気付いてはいたが、私はかなりの一人時間好きである。
友達は昔から少ないし、お酒は大好きだけど飲み会は月に1回か多くて2回、0回のときもザラにあるし、何なら一人家飲みがこの世で一番好きだ。
家族や友達は大好きだけど、それくらいの頻度で良い。
ただ、今まではこんな非社交的で友達が少ないことに実は劣等感を感じていた。
常に人に囲まれているような友人はとてもキラキラして見えるし、
華やかな世界で生きているようで羨ましかった。
そんな友人たちに連れられて社交界(ただの飲み会や合コンである)に飛び込んでみたりして、その一瞬は楽しいけど解散後のグループラインで飛び交う「また集まろう!」の社交辞令には反吐が出たし、帰りのコンビニで買った缶チューハイは乾杯のシャンパンより美味しく感じた。
そんな自分を私は恥じていたのだ。
しかし!コロナ禍のお陰で、私は一人でいる・気が進まないときは人と会わないことの心地よさを痛感してしまったのだ。
自粛期間中はもちろん会合は出来ないし、自粛明けも「まだ心配で・・・」なんて、気を付けている私!を全面に押し出しつつ会合を回避できる。
それに加え、週明け月曜に交わされる恒例の会話、「週末何してた?」
今までは別にどこにも行ってないし誰にも会っていないけど、そう言うと寂しい人だと思われてしまうので、実家に顔出しただの、ランチに出かけただの、小さな嘘をついたりしていた。
しかし!コロナ禍のお陰で、あーどっか行きたいんだけどねぇ、まだちょっとねぇ・・・が使えるのだ。
オールマイティすぎるぞ!
そんなこんなで、これを言い訳に私は今も心置きなく一人家時間をエンジョイしている。
でも、本当は気付いていたのだ。
別に言い訳なんてしなくても、一人好きなのは何も悪くない。
コロナがいつか収束したって、私は気ままに一人を楽しめばいいのだと。
人は孤独だというかもしれないけど、それが何だ。
大体孤独というのは集団の中にいて感じるものだ。
ということで、価値観1:
一人暮らしの一人家時間が大好き。家飲みが世界で一番美味しいお酒。